一時の感情に「囚われない」ことを大切にする「禅」とは

もっとも、禅僧がおだやかでいられるのは、修行の成果とばかりとはいえないように思います。
禅は一時の感情に「囚われない」ことを大切にします。
囚われない心とは、どのようなものか。

それは、お寺にもたくさん生えている「竹」に似ています。
どんな風にもビクともしないコンクリートの柱は、頑強そうに見えてその実、脆(もろ)いもの。
一定以上の衝撃を受けると、ポキリと折れてしまいます。

感情のコントロールできますか?(写真提供:Photo AC)

しかし、竹は違います。
強風で大きく撓(たわ)むことがあっても決して折れず、風がやめばまた、まっすぐ空に伸びていきます。

不意に感情が振れることがあっても、またすぐに本来の状態に戻ることができる。
それが囚われない心のありようです。
囚われない心と聞いて思い出すのは、「一休さん」の愛称で知られる一休禅師のエピソードです。

あるとき、一休禅師が弟子を連れて町を歩いていると、どこからともなく、うなぎを焼くいい匂いがしてきました。「おいしそうだな」。
一休禅師がそう呟くと、弟子の一人が「お師匠さま、仏道を生きる者が、そんな生臭いことでいいんですか」と窘(たしな)めました。

その後、一行がお寺に帰り着くと、弟子は言いました。
「さっきのうなぎは本当にいい匂いでした。食べたかったですね」
一休禅師はアハハと笑って答えました。
「まだうなぎに取りつかれているのか。わしは、あの場にうなぎの匂いを置いてきた」

一休禅師ほどの名僧も、うなぎの蒲焼きの匂いが漂ってくれば、「いい匂いだな、食べたいな」と心が揺れるのです。

それは、人間である以上は当たり前の感情であり、僧侶だって例外ではありません。
一休禅師が常人と異なるのは、それを後々まで引きずらないことです。

一方の弟子は、町では殊勝にも我慢しているふりをしましたが、お寺に帰ってもうなぎに心を囚われたままでした。
このエピソードは、おだやかに生きるヒントを、私たちに教えてくれているように思います。

繰り返しますが「おだやか」とは喜怒哀楽がない状態ではありません。
一休禅師も、女性を愛し、お酒を愛した破戒僧でした。おおいに喜び、怒り、哀しみ、楽しむ人生を歩んだことでしょう。

けれども、一時の感情に囚われることなく、その場に「置いてくる」ことができる。
「これ以上、あれこれ思い悩むのはやめよう!」と自分に言い聞かせたら、そのとおりにできる。

人間、かくありたいものです。

※本稿は『おだやかな人だけがたどり着く場所』(草思社)の一部を再編集したものです。


おだやかな人だけがたどり着く場所』(著:枡野俊明/草思社)

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