『紅白』連続出場は33回。大ベテランながら、若い世代にも親しまれる小林幸子さん。ですが、ここまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。心折れずに歌い続けることができた理由は――(構成=丸山あかね)
大喜びした父、大反対した母
8月の初旬に60周年記念コンサートを無事に終え、ホッとしているところです。10歳で歌手になってから、もうそんなに経つのですね。
デビューした1964年は、初めて東京でオリンピックが開催された年でした。歌手生活の間に東京オリンピックが2回も行われたことを考えると、長くやってきたものだなと思います。
コンサートでは、AI技術で10歳の自分の姿と声を再現していただいて《共演》したのですが、リハーサルで号泣してしまいました。彼女が私に聞くんです。「これから私はどうなるの?」って。そこからデビュー当時のことが走馬灯のように蘇ってきて……。10歳の自分と会話をしながら、たくさんの方に応援していただいて今があるのだと痛感し、感謝の思いが溢れました。
振り返れば、苦しいことや悔しいことが数えきれないほどあったのも事実です。当時は、涙がもったいないからとグッとこらえたこともありました。幾度歌手をやめたいと思ったことか。やめなかったのは歌が好きだから。それに尽きます。
小さなころから歌が大好きでした。といって、歌手を夢見ていたわけではありません。若いころ歌手志望だった父が、勝手に9歳の私の名で『歌まね読本』という視聴者参加型の番組に応募したところから、運命の歯車が動き始めたのです。
「東京見物に連れて行ってやる」という父の言葉につられ、新潟から列車で7時間かけて上京して。「わあ、東京タワーだ!」と思ったら、TBSの電波塔でした(笑)。