運命だと受け止めたら
しかし人生というのは、一つのことに心を囚われていられるほど甘くはありません。私が40歳の頃から父の介護が始まり、51歳のときに事実婚のパートナーが食道がんで他界。その3年後に父を見送った頃には、母の介護生活が始まっていました。
80代になっていた母は、画家としての活動は続けていたものの介助なしには歩けない状態で、私が実家に戻ることを望んでいたのです。
でも私は、母とこれ以上距離を縮めるのが怖かった。「もし私に何かあったらどうするの? ヘルパーさんに来てもらおうよ」と説得しましたが、母は「他人の世話になるのは嫌だし、アンナにもしものことなど起こらない」と言って、決して首を縦には振りませんでした。
ところがそんな矢先、私にステージ3の大腸がんが見つかったのです。大きなショックを受けた母は、それから認知機能が急激に衰え、「アンナ、今は夜か朝か」と電話をしてくるようになりました。
母を置いて入院できないと考えた私は、かかりつけの医師に相談して母も一緒に入院させてもらうことに。二人部屋のない病院でよかったと安堵していたのですが、私の手術が終わると、一緒に食事をしようだの喫煙所に連れて行けだの、《アンナ・コール》の嵐。退院後も抗がん剤治療で鬱々とするなか、実家へタクシーで食事を届けました。
私は、母が絵を描き続けられる環境を整えることが自分の使命なのだ、という思いで支えてきたのです。でも私たちの心が通い合うようになったのは、亡くなる1年ほど前、母の画家としての意欲が消えてからでした。
母は丸くなり、「アンナ、ありがとう」という言葉も飛び出して、私は大いに癒やされました。ごく自然に母との関係を受け止めるようになり、心が軽くなったのです。強い《縁》で結ばれている母娘だから、離れられない。それでええんよ、とダジャレにしてしまえるほどに。(笑)
そして2014年の暮れ、母は呼吸器官の治療のために入院。年明けに風邪を引いて8日ぶりに顔を見せた私に、「あんたも忙しい、もう行き」と声をかけてくれたその日の夜、唐突に逝ってしまった。91歳でした。
私は当初、魂が引きちぎられるような胸の痛みに襲われました。でも、自分でも驚くほど速やかに心の穏やかさを取り戻すことができたのです。不思議と言えば不思議なのですが……。
祖母が他界したとき、母は自律神経失調症を患って10キロ近く痩せ、長く寝込むことになりました。その姿を目の当たりにした私は、こんなふうにはなりたくないと強く思ったのです。つまり母は反面教師として、死別の心得を諭してくれていた。
母の死は最大の恐怖でしたが、グッと堪えることができたとき、その存在を乗り越え、本当の意味で大人になった気がしました。
私は現在、江見絹子の遺した作品を一般公開するため、実家を郷土資料館にしようと動いています。「私たちは作品を通してつながっていられるんだね」と、母に語りかけながら。