「もう安心して向こうに行ける」
ご子息たちの幸せなスタートに比べて、獅童さんは苦難の道だったが、そのご両親の胸中も察するに余りある。ある時、私は母上・陽子さんの暗黙の依頼を受けて、父上・三喜雄さんを「獅童さん見物」に誘ってみた。すると「待ってました」とばかりのご快諾で。
――そうですね、親父は「もう俺は歌舞伎を捨てた人間だから絶対行かない」って。昔の人間で頑固だから、身内の誰が誘っても僕の舞台は観に来なかった。それがその時から突然来るようになって、もう来だしたら止まりませんでしたね。(笑)
父が亡くなる年の正月は、浅草公会堂で「金閣寺」(『祇園祭礼信仰記』)の松永大膳という、国崩しの大きな役で。幕あきはただ座布団の上に座ってるだけなのに、パチパチパチって大きな拍手。まだ何もしてねぇぜ、って客席見たらうちの親父(笑)。ほんとによかったと思います。
母はもう最初から全面的に応援してくれてましたね。『あらしのよるに』なんかも、「将来、獅童が出し物するようになったら……」って企画書を会社に出しておいてくれたってこと、ずっとあとになって聞きました。
母は僕には直接あんまり褒めないんですけど、亡くなる前の月に明治座で『瞼の母』をやった時、「今日の忠太郎はよかった。泣けたわ。もういつ死んでもいい」って言ったんですよ。「そんなこと言うもんじゃない」「もう安心して向こうに行ける」「全然安心すんな」って喧嘩したんだけど。
寒い晩にお風呂で――ヒートショックでした。その日は実家の2階に僕らがいて、今の妻が1階で見つけて、「お母様が、お母様が……!」って2階へ駆け上がって来た。バーッて駆けつけたら眠るように亡くなってて、すぐに湯船から抱き上げてこうやって揺すったんですよ。「お母さん、お母さん」って。でもダメで。
そういう時って、全然涙出ないの。ドラマだとすぐ泣くけどね。緊張が解けた時に、ああ、いなくなっちゃったんだ、って涙が出た。しばらく経って、母が作って冷凍しておいてくれた最後のビーフシチューを、妻と泣きながら食べました。
今日は包まずに、深い話を聞くことができて、よかったです。
――だって、自分の人生で起きたことに蓋しちゃうと、自分の人生を否定しちゃうことになりますからね。
ほんとにその通りですね。