注射よりも彼を元気にすること
「翌日、ぼくは京都大学の医学生を連れて、彼の往診に行きました。諏訪中央病院には日本中から医学生が来るんですよ。死期の迫った患者さんたちがニコニコしているというけど、どうしてそんなことがあるんだろうか、といってね。
以前から僕の本を読んでいたご夫婦は、カマタ本人が来てくれたといってとても喜んでくれました。『これから何がしたいですか?』とぼくが訊くと、
『先生、ぼくの夢は昨日、叶っちゃった。でもせっかく忙しい先生が来てくれたんだから、ぼくの自慢の風呂に入っていってくれないかなあ』
43年間、『住民とともに作る地域医療』を実践してきたけど、さすがに往診先で風呂に入ったことはない(笑)。でも人間は何かをしてもらうより、してあげる方が嬉しいんだとぼくは信じています。ぼくが自慢の風呂に入れば、それは彼にとって大事な喜びになる。それは注射よりも彼を元気にすることなんだ。
『よし、風呂に入るぞ』
医学生と若い総合医にそう言って、3人で地下まで行きました。
すごい風呂でしたよ。峡谷の川沿いに建っている山荘だったんだけど、谷に向かって景色がひらけてて、明るくてね。来るだろうな、と思ってたら、やっぱり奥さんがカメラを持ってやって来た(笑)。3人が気持ちよさそうに風呂に浸かっているところを写真に撮って、2階のご主人に見せたんです。
それ以来、その家ははじけました。元気になって、死の影なんてどこかに飛んじゃったみたいな感じでしたよ。明るい2カ月半を過ごして、彼は亡くなりました。
人間の心ってちょっとしたことで、死は怖くないと思えるようになれるんです。彼が亡くなった後、奥さんからは丁重な、長いお手紙をいただきました」