60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。

「木綿子さん。行きましょう」
 私は動くことができず、ただ、父の乗った車が消えた方向をにらんでいた。
「木綿子さん」
 霧の声にはっと我に返った。麻子が心配だ。私は家に駆け込むと、階段を駆け上がった。麻子の部屋の前で声を掛ける。
「麻子、入っていい?」
 麻子をいたわらねば。父の酷すぎる暴言でどれだけ傷ついただろう。せっかく回復してきたところなのに。
「一人にして」
 部屋の中から返事があった。
「麻子。お祖父ちゃんの言ったことなんて気にしなくていいから……」
「いいから一人にして。一人で大丈夫だから」
 麻子の悲鳴のような声が聞こえて私は胸が潰れそうになった。まさか、馬鹿なことをしでかしたりしないだろうか。まさか、まさか――。