松本清張さんの顔真似をする竹中さん(写真提供:竹中さん)

青年座公演『写楽考』は、それまで西田敏行さんが主演だったが、84年からは竹中さんに。

――はい。西田さんは先輩で、よくお酒に誘ってくださったんですが、その頃の僕はお酒が全く飲めなかったので、付き合いの悪い後輩でした。

『写楽考』も転機です。このお芝居でスペイン公演にも行きました。観客はスペインの観客、日本語の台詞が通じないと思ったら自由にお芝居ができるようになったんです。「何かを伝えようと思った時点で、お芝居はつまらなくなる」ことを体感しました。

その前に宮沢章夫とも「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」というユニットを結成していたのですが、サブカルと評されて人気がどんどん出てきて。それが照れくさくて嫌で先にやめちゃいました。

ちょっと遡りますが、僕の本格的デビューは27歳の夏。プロダクション人力舎の当時の社長、玉川善治さんに出会ったことは本当に大きな転機です。「君は面白いから、横山やすしさん司会の『ザ・テレビ演芸』に出てみないか」と東北訛りの優しい声で言われました。

その番組で横山やすしさんにも認められいきなり27歳の夏に芸能界デビュー、念願の風呂つきアパートに住めるようになったんです。人力舎の玉川さんがいなければ今の僕は存在しません。

五社英雄監督との出会いも大きかったです。五社監督の『226』(89年)に出演した時、プロデューサーが奥山和由さんでした。その奥山さんに「そんなに映画が好きなら監督やればいいじゃないか、一億出してやるよ」と。そして、大好きだった、つげ義春さんの『無能の人』を初監督しました。これも大きな転機です。