左:『雑草のくらし―あき地の五年間―』(書籍・85年/福音館書店)
右:『きゃべつばたけのぴょこり』(『ちいさなかがくのとも』2003年5月号、書籍・17年/福音館書店)

おまえさんらのような若い生き物に、わかるか?

現場に行った時、「今日はこれを描こう」と決めて見ることはしません。ものを写生する時、そのものの1ヵ所ばっかり見ていると、そこしか見えないでしょ。だから知らんぷりしてできるだけ気持ちを遊ばせておくの。いつでも反応できるように。

そうしていると、目の端のほうで動いたものに「うん?」と気がつく。連中が教えてくれるんです。「おまえさんらのような若い生き物に、わかるか?」って。まばたきほどの人間の歴史から見れば、大変な歴史を生き延びてきたんですから、連中の生き方に自分を合わせなきゃ、何も見せてもらえません。

連中から《見せて》もらうには、できるだけ体全体を使います。だから私の仕事は肉体労働。なるべく首から上は使わないようにしないと、《人間》が入ってきちゃう。

『雑草のくらし―あき地の五年間―』のために、空き地に生える雑草を観察していた時は、シャベルで土を掘ったり、根っこを浮き上がらせるためにじょうろで水を撒いたり。力仕事なんです。

暑い夏の日に、草の数を勘定したこともありました。メヒシバは生命力が強く、密集して生えていても生きます。でも限界点はある。10センチ四方にどれだけたくさん生えたら枯れるのか数えたら、生存の限界点は、44本でした。

私がやっていることは、無駄に見えるのかもしれません。でも、無駄ほど大事なものはありませんよ。無駄なく何かをしようとすると、落とし物が多くなります。

『ブナの森は生きている』の担当編集者と取材に出かけた時、私、「だらこで帰る?」って訊いたんです。「だらこ」は各駅停車のこと。一駅ずつ止まってダラダラするから。彼、「うん、だらこに限る」って。

するとね、時々宝くじに当たったようなことが起こるのよ。ある駅に止まってドアが開いたの。発車までにちょっと時間があってね。そうしたら、タンポポの綿毛がぶわあっと車内に入ってきた。おお、すごい、いいねえって二人で言い合って。