父の失業、繰り返す入院と車による事故

給食は最高のご馳走だった。好き嫌いする友達が信じられなかった。こんなにおいしくて豪華なものはない。あまりものの争奪じゃんけんには男子に混ざって必ず名乗りをあげ、絶対におかわりをした。

5つ上の姉の同級生に「嫌いなものを食べて」と呼ばれ、残飯処理班として出動することも多かった。食欲旺盛な子、くらいに思われていただろうが、私からすれば必死に栄養を確保する機会なのだから利害は一致していたのだ。

父の失業中は、本当にお金がなかった。

食べるものもなく、家にずっといてしょぼくれている父を、私が家中の小銭を集めて、駄菓子を買いに連れていったことを、今でも覚えている。 

加えて父は、しょっちゅう入院した。

もともと胃腸が弱いのだが、嘔吐しだすと大体そのまま腸閉塞で入院する。

年末年始は毎年のように腸閉塞になるので、もはや風物詩と化していた。

しかし、医者が止めても、「働かないと!」と言って、嘔吐がやっと治まってふらふらの身体で無理やり退院して働きに出るのだ。

そしてまたある時は自家用車で単独事故を起こし、血だらけで意識を失っているところを偶然通りかかった通行人が見つけ、九死に一生を得た。

運転が荒いせいか、何度事故を起こしたかわからない。ちなみに本人はなぜか「わし、いままで手術8回もしたんよ!」と自慢している。

中古で5万円くらいの車を譲ってもらい、しょっちゅう買い替えていた。

母も姉も、そんな父を見ながら、どこか諦めていたように思う。

私も、生まれたときから極貧、トラブルの絶えない人生を、無意識に受容していたように思う。

受容、といっても、困難が大きいからと耐性が付いたり、感受性が鈍くなったりするかというと、そんなことはない。毎回痛い。ちゃんと痛い。

何よりも父の日常的な暴力を見るのは耐えがたい苦痛で、毎日父が母に何もしないよう、必死に祈っていた。