本家・三浦をしのぐ勢力を得た和田

本家とか分家の筋目でいうと、三浦義村は本家当主、和田義盛は分家の当主で、義村が格上、ということになります。

でも、この頃はまだ開発すべき土地に余裕がありましたので、新しい土地に進出した分家が力を持つ、ということも十分にあり得た。

和田義盛がまさにその好例で、上総広常の本領(伊北荘)を獲得するなど房総半島に進出した彼は、義村をしのぐ勢力を誇ったといいます。

和田合戦。一騎当千の勇士揃いの和田軍勢を前に、鎌倉は火の海に。北条義時の子・朝時も重傷を負う(『少年日本歴史読本. 第拾參編』編:萩野由之/博文館。国立国会図書館デジタルコレクション

ぼくがかつて慶應義塾大学で非常勤講師をした際に指導した大学院生は、様々な史料を駆使して、「当時の三浦のトップは義村ではなく義盛だ」と発表してくれました。よくできていたけれど、あの論旨、論文として発表したのかな?