人は常に新しい堕落の種を見つける

インドが核実験をした後、日本の新聞は、ガンジーの無抵抗主義を見習え、と書いた。

来世を信じている人なら、あるいは殺されてもいいかもしれない。来世には、仏か神がいて、その行為を嘉(よみ)するから、現世では必ずしも報いられなくていいのである。

しかし日本人の多くは知的だから、自分は無神論者だと言う。死ねばゴミになるのだと言う人が多いのだ。

とすれば、この世がすべてである。そのたった一度の生涯を、ガンジーは無抵抗だったから殺されてしまった。

「あんたは殺されても平和主義者でいられるのかね」とインド人は言うだろう。「殺されたくないから、実験をしたんだ。あんたは他人にガンジーのように死ねと言うのかね」と言う声も聞こえそうである。

日本人は、「背後にあるもの」も見えず、「底にあるはずのもの」も感じなくなっている。

漢方薬を使ったり運動をしたりして体質を変えることなど全く考えずに、とりあえず今苦しんでいる熱や下痢を抑えることだけを望んでいる。

そういうやり方をしていると、バブルの付けが終わっても、制度を替えてみても、幼稚園の子供に対するような倫理規定を作ってみても、また次の難関が来たら、それを受けきれずに別の堕落(だらく)の仕方をするだろう。

もっとも堕落のない社会などないのだ、と言うこともできる。人は常に新しい堕落の種を見つける。だから退屈しなくて済んでいる。

※本稿は、『幸福は絶望とともにある。』(ポプラ社)の一部を再構成および再編集したものです。


幸福は絶望とともにある。』(著:曽野綾子/ポプラ社)

自身の経験にもとづく問題提起を行ってきた著者が、閉塞状況の日本に一石を投じるエッセイ。1997年から2000年に毎日新聞、産経新聞などに掲載したものをまとめて単行本化した書籍の改装版。