(写真提供:Photo AC)
現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部を中心としてさまざまな人物が登場しますが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏・国際日本文化研究センター名誉教授いわく「『源氏物語』がなければ道長の栄華もなかった」とのこと。倉本先生の著書『紫式部と藤原道長』をもとに紫式部と藤原道長の生涯を辿ります。

疫病と道隆・道兼の死

伊周に完全に先を越された道長であったが、その転機は突然に訪れた。

疫病が蔓延していた長徳元年(995)、関白藤原道隆が4月10日、そして関白を継いだ藤原道兼も5月8日に死去した後を承けて、5月11日に、一条天皇は権大納言(ごんだいなごん)に過ぎなかった道長に内覧宣旨(ないらんせんじ)を賜わった。

こうして道長は、いきなり政権の座に就いたのである。

道長の同母姉で一条生母(国母<こくも>)である詮子(せんし)の意向が強くはたらいたとされる。

道長は6月19日には右大臣に任じられ、太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)(首班)となって、公卿議定(くぎょうぎじょう)を主宰した(翌年には左大臣に上っている)。

道長にはこれ以降、とてつもなく忙しく、また諸所に気を使わなければならない日々が待っていた。

当時の公卿構成で、道長は伊周・隆家兄弟を除けば最年少だったのである。

ただし、詮子も一条も、それに道長自身も、この時点では、あれほどの長期政権になるとは考えていなかったはずである。

道長自身は病弱であり、加えて長女の彰子(しょうし)は幼少(長徳元年では8歳)、嫡男の頼通はさらに幼少(同じく4歳)となると、道長がつぎの世代にまで政権を伝えられると考えた者もいなかったはずである。

結局は定子(ていし)の兄である伊周に政権を担当させることになるであろうと、一条も考えていたことであろう。