年齢を重ね、体に不自由は感じても、やらなければならないことがある。澤地久枝さんは「戦争に反対する」という一貫した信念のもと、執筆を続け、毎月3日に国会正門前に立ち、静かな意思表明を続けてきた。新年に思うこと、書こうとしている作品、そして戦争を知らない世代になにを伝えていきたいか。いまの思いを聞いた(撮影:宮崎貢司)
戦争反対の思いが固まるまで
満洲からの引き揚げ前に関東軍が逃走。ソ連軍、中国共産党軍、蒋介石軍の支配下におかれ、わが家は1年間の難民生活を余儀なくされました。やっとの思いで日本に帰ってくると、すでにまわりは戦後の生活に慣れています。
女学校に1年遅れで復学しましたが、そのころ学校で流行っていたのは、教会と、ダンスと、英語教育と、『リーダーズ・ダイジェスト』というアメリカで発行されている雑誌。私はあまりにむなしくて、そのどれにも見向きもしなかった。とてもついてゆけない気持ちでした。
中央公論社に勤めながら定時制の高校に1年行ったあと、早稲田大学第二文学部に通い出したときですから、1950年のことです。
一般教養として体育の授業を取っていた私たちは、向ヶ丘遊園までハイキングに行きました。すると昼食の時間、共同通信に勤めていたクラスメイトの一人が走ってきて「戦争が始まった」と叫んだのです。
その日は、6月25日。朝鮮戦争が起こった日でした。私はまだ自分の体験した戦争すら受け止め切れておらず、そんな自分をどう扱っていいかわからないような状況だったのに、また大きな戦争が始まってしまった。これは非常な衝撃でした。