第二次世界大戦後も終戦を知らず、グアム島のジャングルで28年にわたる自給自足生活を送った故・横井庄一さん。26歳で出征し、57歳で帰国した横井さんは、メディアや講演で自身の体験を語り続けた。2015年の安全保障関連法の成立で、《平和》の意味を問い直す機会の増えた昨今、戦争の犠牲者ともいえる横井さんに寄り添った妻・美保子さん(88歳)が、2人の戦後を語る(構成・撮影=青柳雄介)
「珍しいからわしを見に来たのだろう」
人の縁とは、実に不思議なものですね。横井は1972年2月2日に帰国したのですが、私はその年の8月13日に、彼と名古屋でお見合いをしました。当時私は、京都の兄の家で、家事の手伝いをしながらの生活。横井は帰国直後に東京で入院し、その後はマスコミに追われていたようですが、私は彼についてあまり知りませんでした。
お見合いには、親しい知人から「行くだけでいいから」と懇願されて、ピンチヒッターとして臨んだのです。お見合いすることは家族にも伝えなかった。もともと私は家族に黙って見合いをするような性格ではないのですが、何かひかれるものがあったのでしょうか。
横井の第一印象は、28年間もジャングルで生活していたとはとても思えないほどスマートな紳士でした。背広がよく似合っていましたね。ただ、彼の第一声には驚きました。「結婚する意思もないのに、珍しいからわしを見に来ただけだろう」と、挨拶もなしに言ったのです。
一瞬、私は戸惑いましたが、その場をやり過ごして黙っていました。そして2人きりになったときに、こう伝えたのです。「私はとても怒っています。そんな物好きではありません。あなたはグアム島で28年もがんばって生き抜いたほどの人なのですから、焦らずゆっくりと、自分にふさわしいお嫁さんを探さなくては幸せになれないと思います」と。
私の言葉に何かを感じたのでしょうか、「あんたのように、怒ってくれる人が好きだ」と、横井は真剣な顔で言いましたね。お互いに卯年生まれということで親しみもわき、徐々に打ち解けていきました。話をしていると、非常に温かみがあり、野に咲く花のように素朴で。箸袋にこんな言葉を書いてくれたのです。
「君思ふ 心にまさる 名城かな」
とても上手な字だったことをよく覚えています。そして、これはプロポーズなのかな、と。トントン拍子に話が進み、なんとその日のうちに結婚が決まりました。帰り際に横井は、「心変わりせぬように」と、私に言いましてね。私は家に帰って、家族に箸袋に書かれたメッセージを見せ、「お見合いをしてこういう関係になったので、結婚します」と伝えました。普段はやかましい兄も、このときはすんなり賛成してくれました。何よりも私の決意のようなものが伝わったのでしょうか。このとき横井は57歳、私は44歳でした。