写真提供◎AC
貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。現在もアルバイトを続けながら、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。ヒオカさんの父は定職に就くことも、人と関係を築くこともできなかったそうで、苦しんでいる姿を見るたび、胸が痛かったという。第34回は「消費される自己」です。

気を抜くと際限なく消費される

私はメディアの片隅にいるライターだが、メディアのセンセーショナリズム(扇情主義)には常に違和感がある。
”悲惨さ”や”グロさ”を抽出し、脚色し、煽るような記事。それらを見る度、なんとも言えない気持ちになる。
こういってはなんだが、メディアは常に“可哀そう”、“悲惨”キャラをハイエナのように探している気がするときもある。

私がライターとして活動するようになったきっかけとして、貧困家庭で育った体験を書き、多く読まれたという出来事がある。
とはいっても、最初はまったく、貧困というテーマで執筆するつもりは全くなかった。
知人の「あなたの体験を書きなよ」という助言がこのテーマで執筆する大きなきっかけとなった。

そして本を出版し、取材を受けたり、イベントで話す機会も増えた。
活動を通して感じるのは、「気を抜くと際限なく消費される」ということ。
自分の体験を語るのは、あくまで社会構造の問題を指摘するためだ。
自分のことを書くにしても、取材して記事にする時も、非常に意識しているのが個人の体験に終始せず、そこから社会の問題に目を向けるきっかけを作ること。
センセーショナリズムの問題点は、人間の中にあるグロいもの、悲惨なもの見たさを刺激しPVを集めても、結局その背景にある問題について考えることに繋がらないことだと思う。

質の高い関心を生まないのだ。
「消費される」という言葉はよく聞くが、消費とは一体何なのかを言語化したものを目にする機会は少ない。
私も日々、「消費されること」とはどういうことか考えている途上だ。
ただ一つ思うのは、使い捨ての好奇心を引き寄せるだけで、問題の本質について考えるような質の高い関心を得られない場合、個人の体験は「消費された」と言えるのではないだろうか。