「人権」はすべての人に与えられている

人生は生い立ちが8割 見えない貧困は連鎖する』(集英社新書)に詳しく書いたが、自頭や健康な身体。それは遺伝的要素も大きい。

逆に、低所得に陥る人も、すべてが自分の責任とは言い難い。

視力が低い人は、眼鏡やコンタクトレンズがなければ、働く上で大きな制約が出るだろう。でも、眼鏡やコンタクトがあるから、健常者として働ける。

しかし、様々な障害は、障害を持ったまま働くための制度や環境が整備されていないがゆえに、障害者となれば著しく制約を受けざるをえない。それを整備するのは、社会や政治の責任なのだ。

低所得者や障害者への支援は、社会の制度作りが追い付いていないという前提があって、それを補うための応急処置だと言えるのではないか。

怠け者で働かないのに血税で食わせてもらっている人ではなく、政治や社会が責任を果たせず、制度や環境が整備されていないからこそ、それによって受ける不利益の一部を補填してもらっているに過ぎないと思うのだ。しかも、それもまだまだ不十分と言わざるを得ない。

この国には、義務と権利はセットという捉え方がある。勤労という義務を果たしていないのに、権利を主張するのはおかしい。義務を果たしていないのなら、権利が制限されて当然だ、と。

しかし、「人権」に関しては、無条件に、すべての人に与えられているものだ。

『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』(藤田早苗著、集英社新書)には、「人権」についてこう書かれている。

「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性(potential)を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」

今の社会は、政府がすべての人の人権を守るという責任を果たせていないのだ。

(イメージ写真:stock.adobe.com)