夕食を終え、私は霧の半纏に話しかけた。
「ねえ、霧さん。私の父が霧さんに酷いことを言ったとき、本当に腹が立った。一瞬だけど本気でこう思った。……死んでくれたらいいのに、って。そう、いっそ殺してしまおうか、って思ったくらい」
家庭内殺人を行う人間の気持ちがよくわかった。加害者も被害者も憎む者も憎まれる者も一つ屋根の下に住んで、たとえどこかへ出かけようと必ず帰って来るのだ。自分の心と身体を守るためには殺すしかない、と考えてもおかしくないほどに追い詰められる。
手を伸ばして霧の半纏に触れた。柔らかいけれど張りのある生地は木綿。つまり私の名だ。
「止めてくれたのは霧さんだった。穏やかに、でも毅然と私を諫めてくれた。私が犯罪者にならなかったのは霧さんのおかげ。そして他にも……」
私は指先でそっと半纏をなぞった。
夜は更けてずいぶん冷え込んできた。瀬良からもらった蓬命酒を青いぐい呑みに注ぎ、一息であおる。甘い蓬の匂い。かあっと身体が熱くなる。
あの夜の天国と地獄が甦る。私は二度と忘れたくない。身体の奥深くに留めておきたい。何度でも蓬の熱で中から焼いて欲しいのだ。
出典=WEBオリジナル
遠田潤子
作家
1966年大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科卒業。2009年『月桃夜』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。『雪の鉄樹』が「本の雑誌が選ぶ2016年度文庫ベスト10』第1位、『オブリヴィオン』が「本の雑誌が選ぶ2017年度ベスト10」第1位に輝く。『冬雷』で第1回未来屋小説大賞、25年『ミナミの春』で山田風太郎賞を受賞。他の著書に『銀花の蔵』『イオカステの揺籃』『天上の火焔』などがある。
