砂金探し=供養
遺品整理とは、まるで砂金を探すような作業のこと。捨てることにフォーカスした作業ではなく、あくまで発掘作業です。
砂金をみつけたら、それ以外の土砂は残骸であり、いらないモノとなります。
「お母さん、大丈夫。あなたが遺したいモノは私がちゃんと探し出すから」という供養になるのです。
そもそも、あちらの世界ではいらないから置いていったモノばかりですからね。
「いらないんだよね。だから置いていったんだよね。始末しようと思ったけど、間に合わなくて忘れていっちゃったんだよね。わかったよ」と言ってあげる。それが夫や子どもに対してなら話は別ですが、親に対してはそんなふうに声を掛けます。
私は遺品について、あるいは遺体について、「脱いだ服」のようだと考えています。脱ぎっぱなしであの世へ行ってしまった、それなら始末をしてあげよう、と。
チベット仏教を信仰する国・ブータンは、遺体は土に返すもの、土に還るものという考え方をします。日本のように遺体に対する特別な感傷はありません。
墓石はなく、天まで届くような竹の棒にダルシンと呼ばれる祈祷旗がついていて、そこに経文が書いてある。この白い旗のはためく棒が高い山に何本も立っている景色は壮観でもあります。私は「これだ!」と思いました。
日本では人が遭難すると遺体の捜索をしますが、もし私が遭難したら遺体を探す手間をかけたくないと考えてしまいます。見つからなかったら死んでしまっていると思っていい、ちゃんと土に還るのだから心配しないで、と。まして「モノは残骸」ですから、私の遺品がほしければ持っていけばいいし、いらないなら捨ててしまっていい、とそんなふうに考えています。
話がやや飛躍しましたが、まとめると――。
遺品整理というと重たい響きがありますが、それは「残骸処理」。でもその中に砂金がある。「砂金探し=供養」と考えると、少しは心が軽くなっていくものです。
※本稿は、『モノが減ると不安も減る 実家の断捨離』(大和書房)の一部を再編集したものです。
『モノが減ると不安も減る 実家の断捨離』(著:やましたひでこ/大和書房)
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