53歳のとき、思い立って早稲田大学大学院へ進学し、哲学や文化人類学、世界や国、個人のありようなどを学びました。
あのとき、怯える母によい答えを返せなかったのは、私にしっかりした死生観がないからだと思い、キリスト教の洗礼を受けて勉強もしました。今も先生について哲学を学び続けています。
各宗教がどのように死を説明しているかを知るのはとても面白い。母を亡くした喪失感は変わらずありますが、結果的に拠り所のひとつになっています。
私も今年、母が亡くなったときの年齢となり、いよいよ自分の死と向き合う時期が来ました。生前整理みたいな「終活」をするつもりはありませんが、老いをみつめる強さとか死への覚悟は備えたい。それこそが真の「終活」ではないでしょうか。
部屋に母の写真を飾り、母が遺した湯呑みでいつもお茶を飲んでいます。写真といってもいわゆる遺影ではなく、カメラを構える母の姿を父が撮影した一枚。思い出すというより、これからも母は私の記憶や暮らしのなかに居続けるのだと思います。
どんな人であれ、母親というのは自分を産み、育ててくれた唯一の存在。忘れられるわけがないじゃないの、と思っています。
