その36冊をじかに目にする機会を得たのがエッセイストの平松洋子さん。一冊一冊きちんと自装されたノートを前にして平松さんの胸に迫ってきたものとは
※本記事は、『わたしの献立日記』(沢村貞子、中公文庫)の解説を再構成しています
しゃんと背筋を伸ばして佇む気配
営々二十六年、沢村貞子が大学ノートに毎日記しつづけた献立日記は通算三十六冊におよぶ。あるときは鉛筆、あるときはボールペン、定規を使ってみずから縦線と横線を引いてつくった罫のなかに日々の献立が淡々と書かれてゆく。
その三十六冊をじかに目にする機会を得たとき、まずわたしの胸に迫りきたのは沢村貞子の気の張りだった。気の張りといっても、それは外に向けられたものではない。そもそも献立日記を書こうと思い立ったのは自分ただひとりのためで、その後もいっさい他人の目を意識せず書き継がれた。毎朝外出するとき一日の献立をお手伝いさんに渡して出かけるのが習慣で、帰ってきてから毎晩その内容をノートに清書した。いってみれば備忘録なのだが、だからこそ、一冊ずつ好みの着物を着付けてしゃんと背筋を伸ばして佇む気配をまとっていることに驚かされたのである。
どこにでも売っているふつうの大学ノートだが、三十六冊のうち一冊を除くすべて、表紙と裏表紙が芹沢けい介(けいは金偏に圭)のカレンダーでくるんで自装してある。和紙の手触りがふんわりと指にやさしく、自分の好みに仕立てて大切に扱ってきたことがひしひしと伝わってくる。表紙の右脇にはマジックインキで年が記されており、一冊目には「昭和四十一年四月~四十二年一月」。左脇には、長方形に切って貼った和紙に手書きの通算番号「壱」。二冊目は「弐」、三冊目は「参」と続き、以降おなじ意匠で統一されている。はじまりも内容も、なにもかも自分のためだったにもかかわらず、ひとつの確固としたスタイルが踏襲されているところに、「一度決めたことだから」を口ぐせにしていた沢村貞子の意志のありかを垣間見る思いがする。
表紙をめくり、手に取って一ページずつめくって読むと、最初に記したのは夕食だけだが、二冊めになると朝食も書き入れはじめている。三冊めに入ると縦の罫線が一本増え、日付、夕食、朝食が順番に横に並び、献立日記としてのスタイルが確立する。基本は一日二食、朝は野菜サラダ、夜は味噌汁を欠かさなかった。昼は「おやつ」と称し、くだもの、うどん、パンなどごく軽いものが書き添えられているのだが、全体を通じて量が少なめに抑えられているのはプロの役者としての摂生である。とはいえ、嗜好や流行、時代性も楽しげに反映されている。ことに昭和四十年代は新しい料理の本もずいぶん参考にしたようで、「かにのピラフ(おそうざい外国37頁)」「すずきのサンゼルマン(フランス71頁)」など楽しげな書き込みもあり、未知の味に挑戦するときのちょっと自慢げな表情が浮かぶ。「かにの玉子巻き揚げ」「そら豆の白ソースあえ」「玉ねぎスープ」「舌びらめのムニエル」……洋風や中華風の新しい風が吹いていた昭和のあのころ、どこの家庭の食卓にもおなじ空気が漂っていたのだと思うと、献立日記の存在にぐっと身近な気持ちが湧いてくる。