最後に受け取った「パチプロ日記」の原稿

2000年の10月の初めに、放射線治療を終えた田山さんが退院しました。その月の半ば、待ってましたとばかりに、みんなで居酒屋に集まって田山さんを囲んだのですが、田山さんは終始調子が悪そうでした。首の辺りが黒くなっていて、髪の毛がだいぶ抜けていました。かなりきつい治療をしたことがわかります。その治療で治った訳ではなく、ガンが鼻や首に転移していると言うのです。居酒屋の後は違う店に行って飲むか雀荘に行くかですが、「オレは帰る」とぶっきらぼうに言って、田山さんは帰って行きました。

田山さんの体調は日に日に悪くなって行くようでした。それでも「パチプロ日記」は再開してくれて、放射線治療や抗ガン剤治療の辛さや、丸山ワクチン(がん免疫療法剤)に希望を見つけたことなど、ガンに関することも正直に書いていました。

年が明けて、田山さんは原稿を書くのも困難になり、1月に受け取った原稿が最後になりました。それは1月4日の日記で、体の調子が悪いのに朝一でパチンコ店に足を運び、打ってる途中で体調が悪くなり、一度家に帰って1時間ほど眠った後、再度パチンコに挑戦し、最初に負けた分も取り返してプラスで終わっています。さすがだと思いました。

その後、田山さんは誰とも会わなくなりました。丸山ワクチンを射つため、週に2回、近くの玉川病院に通っているということが伝わって来ただけでした。

2月の終わり頃だったと思います。腰痛がひどくなり、ぼくも玉川病院の整形外科に行ったのですが、そこで偶然田山さんに会ったのです。田山さんは喋ることが不自由になっていて、「田山さんにみんなが会いたがっているけど、呼びましょうか?」と言うと、田山さんは首を横に振り、メモ用紙を取り出し「いつ死ぬか」と書きました。その言葉が強烈で、それ以上何も言えず、「お大事に」と儀礼的に言って別れたのが、田山さんとの最期になりました。