早稲田には演劇博物館もあり、学生演劇が一段と盛んで、大学内にはいろんな学生劇団があった。私が昔よく観たのは「ともだち座」。

――僕は「劇団木霊」でしたよ。今もありますね。とにかくガリ勉の反動で、新宿のジャズ喫茶で夜明かししてみたりする生活でしたけど、ある時下宿で土曜の午後にテレビドラマ『若者たち』の再放送を観たんです。田中邦衛さんとか佐藤オリエさんとかの。

うわぁ、いいなぁ、って感動して。やっぱりブラブラしてないで、熱くなるようなことをやらなきゃ、と思って、なぜか、「あ、演劇だ」と思ったんですよ。

小学校のころ学芸会で、担任の佐藤光子先生の厳しい指導のもとに芝居をすると、近所のおじさんおばちゃんが、僕の本名で「俊夫くん、よかったよ、うまいねぇ」って言ってくれたりするのが嬉しくて。それが残ってたんでしょうね。すぐに劇団木霊の門を叩いたわけなんです。

 

B作さんの第一の転機となるのは『泰山木の木の下で』(作・小山祐士)の出前持ちの役を、演出を担当した先輩の部員から褒められたことあたりになるのだろうか。

――そんな役でも新入部員20人くらいの中からオーディションで選ばれたんですよ。ちょっと頭の弱い青年で、ラーメンを警察署に届けて、おもちゃのピストル出してパンパンパン、って。

終演後の合評会で、演出担当の鈴木先輩が、「佐藤の芝居はナイーブでよかった」って言ってくれた。その頃、ナイーブの意味もよくわからなかったけど、福島訛りも当然あったし、それが素朴な感じだったんですかね。その先輩は後に文学座の演出部に行きましたから、ちゃんと見る眼があったのかな、と思いますね。

とにかく劇団で稽古やって、みんなで輪になって劇団歌。それから高田馬場の安い飲み屋で、飲んで騒いで、すんごく楽しかった。すぐに商社マンをめざすのはやめて、俳優になろうと思いました。人生を知らない若者の大胆さですよね。ひとかどの俳優になるのはもっと大変だろうって気づいてないんですから。まぁ、これが第1の転機ですね。