ベストセラーで映画化もされた『博士の愛した数式』をはじめ、小説・エッセイなど多数の著作を持つ小川洋子さん。建て替えのため休館する帝国劇場の支配人から、帝劇を「小説の形で残したい」と声をかけられたそうで――。(構成:山田真理 撮影:大槻志穂)
歴史あるものを初めて題材にして
数年前、ある短編小説執筆のために帝国劇場(帝劇)を取材させてもらったことがありました。その当時、劇場の支配人だった方が、2025年2月に休館し建て替えることになった帝劇を「小説の形で残したい」と、私に声をかけてくださったのです。
それは、演劇ファンとして帝劇に通ってきた私にとって、非常に嬉しく、また光栄なこと。ただ私はこれまで現実に存在しているもの、しかも歴史を持ったものを題材にした経験がなく、その点で不安もありました。
けれど休館するまでの約1年、普段は入ることができない舞台の裏側まで見せてもらい、30名を超える劇場スタッフの皆さんにインタビューした日々は、毎回「今日はいい取材ができた」と感動することばかりで。取材だけで終わればどんなに楽しいか、と思ったほどでした。(笑)
いちばん驚いたのは、舞台と楽屋を結ぶエレベーターのボタン操作をする楽屋係の人のお話です。台本を読み込んで、どの役者が何時何分に舞台へ降りていくのかを頭に入れているだけでなく、あの人は出番がないときも舞台の袖にいる、あの人はほかの人の楽屋へ遊びに行くのが好きなど、それぞれの個性を把握してエレベーターを動かすというのです。
これから死ぬ場面を演じる人と数秒間、小さな箱で一緒に過ごすこともあるというお話を聞いたとき、「あ、これは書きたい」と思ったものでした。
