コロナ禍で子どもを連れて逃げた母親。ホテルにつくなり、ベッドに倒れ込む。
ひとりきりの果敢な戦いがはじまったーー
『おばちゃんたちのいるところ』が世界中で大反響の松田青子が贈る、
はりつめた毎日に魔法をかける最新短編集
『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』より一編を掲載!
2021年4月20日発売、予約受付中!
松田青子(まつだ・あおこ)
1979年、兵庫県生まれ。同志社大学文学部英文学科卒業。2013年、デビュー作『スタッキング可能』が三島由紀夫賞及び野間文芸新人賞候補に、14年にTwitter 文学賞第1位となり、19年には短篇「女が死ぬ」(英訳:ポリー・バートン)がアメリカのシャーリィ・ジャクスン賞短編部門の候補となった。その他の著書に『英子の森』『おばちゃんたちのいるところ』『持続可能な魂の利用』、翻訳書にカレン・ラッセル『狼少女たちの聖ルーシー寮』『レモン畑の吸血鬼』、アメリア・グレイ『AM/PM』、ジャッキー・フレミング『問題だらけの女性たち』、カルメン・マリア・マチャド『彼女の体とその他の断片』(共訳)、エッセイ集に『ロマンティックあげない』『じゃじゃ馬にさせといて』などがある
誰のものでもない帽子
部屋は一万円ほど安くなった。
予約サイトを流れていく無数のホテルの写真には割引が適用された後の数字が赤々と目立っていて、取り残された割引前の数字がさみしげにさえ見えた。
予約した部屋はもともと高くなかったので、割引もそんなものだったが、それでも助かりはした。ウイルスが流行するなか、旅行を推奨する政府の政策はエイプリルフールの冗談というならまだ理解ができたが、まぎれもない現実で、その証拠が赤くなった数字なのだった。
洗濯機、シンク、小さな冷蔵庫、そしてその奥の浴室に続く扉。
ベビーカーをねじ込むようにして扉をなんとか開けると、目にいっぺんに飛び込んできて、それだけで少しホッとした。ここで生活していけるという証。
狭い上がり口はほとんどベビーカーと同じ大きさしかなく、乃蒼(のあ)をベビーカーに座らせたまま、靴を隙間に脱ぎ捨てるようにして先に上がり、そこでようやくベルトを外し、もこもこに着膨れている乃蒼を抱き上げた。
柔らかいおかっぱの髪が頬に触れる。
抱き上げると、乃蒼はいつも両手を広げ、笑っていようがぐずっていようがこっちの目を一心に見て、胸とお腹にくっついてくる。まるで一度一度が決死の救出劇ででもあるように。
洗濯機、シンク、小さな冷蔵庫、奥の浴室がぎゅっと一所に配置された入り口の右手には、くっつけられたシングルベッド二つと小さなソファーとテーブルが置かれても、まだ乃蒼がぱたぱたと走り回れる広さのメインの部屋があり、ネットで見たのとは間取りと家具が多少違ってはいたが、必要充分だった。
ベッドの脇には、先に送っていた紺色のスーツケースがすでに横たえられていて、安堵した。
スーツケースにはこれまでに旅をしたいくつもの国の、いくつもの場所にまつわるステッカーがべたべたと貼られ、部分的に破れたり、汚れたりしていた。どれも結婚前に行った場所だ。
手はじめに、乃蒼の手の届く場所にある部屋の備品をすべて高いところに上げていくことにした。
乃蒼が動き回ることのできる広さと、次々に汚れていく乃蒼の服をすぐに洗うことができる洗濯機、まだ食べることのできるものが限られる乃蒼のために簡単な調理ができる台所を決め手として選んだこの部屋は、普段は、徒歩圏内にある2.5次元ミュージカルの劇場を目当てに連泊する女性客をメインの客層に考えているらしく、予約サイトでも、劇場が近い、という点が強調されていた。
元々値段が手頃なため、充分な収納がなく、奥に入ってすぐの壁に据えつけられた、洋服をかけられるポールのついた棚板一枚が、便宜上、唯一の棚と呼べるものだった。
ガラスのテーブルの上に置かれた、壁掛けの液晶テレビのリモコンや、注意事項をまとめたファイル、除菌スプレーなどを、ぐいと腕を伸ばして棚の上にのせ、手探りすると、ボトルのようなものが手に触れた。これも除菌スプレーだった。チェックインの時、ノヴェルティだと言って、フロントの中国系の男性は小さなボトルに入った除菌スプレーをくれた。持ってきたトートバッグの中にも除菌スプレーが入っている。除菌スプレーだらけだ。
乃蒼が忙しなくべたべたとテーブルやベッドやスーツケースを点検するように触っている間に、早足で入り口側の部屋に行き、キッチンスペースのシンクの下から包丁を取り出すと、上の棚に移動させる。ご丁寧にパン切り包丁まである。
予約した時に把握していた通りに、上の棚には皿や鍋が無造作に重ねられており、引き出しにはカトラリー。時々振り返り、乃蒼の様子を目の端にとらえながら一つ一つ確認するごとに、全身の緊張がほどけていくような気がした。
これだけは普通のホテルにあるのと同じ、小さなサイズの冷蔵庫は乃蒼にことあるごとに開けられることがすでに運命づけられていたが、気をつけるしかない。
奥の部屋に戻った。
乃蒼は隅にある細長いかたちの簡易照明の電源のコードをつかみ、引っこ抜こうとしているところだった。プラグは半分ほど抜け、斜めになっている。慌てて乃蒼の手をコードから離させると、プラグをしっかりと抜いた。
抱き上げた乃蒼をベッドの上に着地させ、はやくスーツケースを開けなければと思いながらも隣に倒れ込んだ。マットレスが乃蒼と私を受け止めた。