女のいでたちで人をあやめた物語
男の身でありながら女に、しかも絶世の美女へと変貌する。その姿にゆだんをした敵の男たちへ斬りかかり、うちはたしてしまう。そんな英雄の物語が、日本の古典にはある。
たとえば、遮那王は近江の宿で、女と見あやまられながら、盗賊を斬りすてた。女装の牛若も、京都の五条橋で、人斬りをかさねている。遮那王も牛若も、源義経が元服をする前の名前である。平安末期を生きたこの武将には、さまざまな伝説があとからつくられた。女のいでたちで人をあやめる話も、そういった物語のひとつである。
同時代の平安末期に、義経が女をよそおったとする記録はない。少年期の御曹司を女装のにあう美童にしたてたのは、室町時代の文芸作者であった。
ならば、なぜ室町文芸は少年義経を、そういうふうにえがいたのか。私はそこに、美少年が動員される芸能の関与を、読みとった。室町時代ならではの興行事情が、背後にはあったのだ、と。三田村鳶魚らの説も援用して。
なるほど、牛若伝説に女装譚をつけたしたのは、室町期の文芸であったろう。この時代にそういう物語をよろこぶ傾向があったことは、うたがえない。しかし、女となって敵をたおす英雄の話は、もっと昔からある。奈良時代のはじめごろから、語られてきた。
言うまでもない。ヤマトタケルの物語がそれである。ヤマトタケルは女のふりをして、敵であるクマソ一族の宴席へもぐりこんでいる。そして、その美貌にうっとりしたクマソのリーダー、族長をうちとった。8世紀初頭の『古事記』や『日本書紀』には、そういう話がおさめられている。
室町時代だけが、女装する英雄像を好んだわけではない。上代の歴史語りもまた、同じ筋立てでできた話をふくんでいた。まだ、能楽や幸若舞のように美少年をめでる芸能が、一般化していたとは思えない。そんな古い時代から、女装の殺人者は物語のなかに登場していた。
どうやら、こういう人物造形は、時代をこえて好まれたようである。だとすれば、室町時代の事情を語るだけで、ことをすますわけにはいかなくなる。超時代的に通用する魅力の正体にも、せまっていかなければならないだろう。