彌十郎さんの初舞台はとても遅くて、17歳。背丈のせいで、歌舞伎の子役には向かなかったから。
――そうなんです。歌舞伎の子役は小さい割に利発、というイメージですからね。17歳の時、7代目(坂東)三津五郎のお祖父さんの十三回忌で、8代目の伯父が5月の歌舞伎座で『奴道成寺(やっこどうじょうじ)』を出したので、その所化(しょけ)(修行僧)に出たんです。劇中で口上をしていただきました。
その後、三津五郎の伯父のところへ泊まり込んで踊りのお稽古をしてもらい、四天王とか太鼓持ちとか、長く座ってるだけの役にずいぶん出ましたね。
でもまぁ、この17歳の初舞台が第1の転機ですね。とにかく役者への第一歩ですから。
それから5年ほどで名題になりました。僕、『人情噺文七元結』の鳶頭をやらせていただいて。左官の長兵衛が十七代目勘三郎のおじさん。文七がまだ孝夫だった仁左衛門のお兄さん。娘のお久が岡村菁太郎さん、今の清元延寿太夫さんで尾上右近君のお父さんですね。それで和泉屋清兵衛は父だったんです。
幕切れ近く、みんなが揃ってめでたく幕になる前に、勘三郎のおじさんが披露してくださるんですが、「ここにおります坂東、えーと何だっけ。あぁ弥十郎ね」、当時は簡単なほうの弥の字でした。
で、披露はそれだけで「父親の坂東好太郎とは私、幼馴染でして、踊りの稽古なんかも一緒で、迎えに参りますんですよ。『けーんちゃん』『はぁーい』と、こういう仲でございまして」。
ずうっとその話で僕の披露なんかもうね、たまに弥五郎と言ったりなんかして(笑)。仁左衛門のお兄さんはずっとクククク、って笑ってました。