「いいですよ」と快く

この名題披露の3年くらい前から父・好太郎と歌舞伎以外の演劇に出演していた時期があったというが、この体験がのちのドラマ出演への基礎を築いたと言えるのかもしれない。

――そうかもしれませんね。1975年に三津五郎、勘弥の両伯父が立て続けに亡くなります。僕はこの頃、萬屋錦之介さん、大川橋蔵さん、山本富士子さん、林与一さん、杉良太郎さんの芝居に父と一緒に出ていました。ここだと父がいい役で出るので、僕にもそれなりの役がつきましたから。

その頼りに思う父も僕の名題披露から3年後には亡くなってしまうんです。70歳。ちょうど今の僕の歳ですね。

亡くなる少し前に僕の将来を案じて、親父が3代目(市川)猿之助さんのところへ電話をしてくれた。倅が澤瀉屋(おもだかや)さんのところで勉強したいそうで、と言ったら快く、「いいですよ」って引き受けてくださって。そこでずいぶん多くのことを学びましたから、これがやはり第2の転機だと思います。

「僕は常に新しいことに挑戦してる、と言われてるけど、まずは古典の基礎をちゃんとやらなくちゃ駄目」って。「いろんな物を見て感動しなさい。自分が10感動して、人様を感動させられるのはやっと5か6なんだから」とおっしゃって。

パリのシャトレ座でオペラ『コックドール』(リムスキー・コルサコフ作曲)の歌舞伎的な演出をなさった時は、市川右近(現・右團次)さんと僕を助手として連れて行ってくださり、約2ヵ月パリにいましたね。これは本当に勉強になりました。

<後編につづく>

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