「私の母は、母親らしい「慈愛に満ちた」イメージからはかけ離れている人でした。顔立ちのはっきりした、娘の目から見ても美しい女性でしたが、性格も行動も顔同様にとにかく派手だった。」(撮影:円山恭子)
2015年、北海道釧路市の実家を売却した漫画家の瀧波ユカリさん。その前年に母の末期がんが見つかってから1年足らずのことだったといいます。仕事に子育てに追われながら、片付ける中で見えてきたものは(構成=田中有 撮影=円山恭子)

距離を置いていた母に突然のがん宣告

実家を手放してから5年が経ちました。18歳で飛び出すように後にした家であっても、「ない」ことに慣れるまでに、意外と時間がかかりました。もちろん、もう実家絡みで煩わされることはないんだ、という清々しさもあります。

父亡き後、釧路の家でひとり住まいをしていた母に末期のすい臓がんが見つかったのが、2014年春のことです。母は大阪の姉の家へ移って治療を開始。すぐに同じマンションの別室に空きが出たため、そこを借りて実家の家財道具を移し、実家は兄主導で売却することになりました。

数ヵ月のうちに家族が慌ただしく動き回り、その年の夏、私は3日間の休みをひねり出し、幼い娘を連れて自宅のある札幌から釧路に向かったのです。母、姉と合流し、大阪行きの荷物を仕分けて不用品を処分するために。

私の母は、母親らしい「慈愛に満ちた」イメージからはかけ離れている人でした。顔立ちのはっきりした、娘の目から見ても美しい女性でしたが、性格も行動も顔同様にとにかく派手だった。

そして会社経営者の父は、典型的な昭和の男。仕事人間で家庭を顧みず、カッとなったら手も出ます。私は物心ついたころから、突然荒れる父と突然キレる母に戦々恐々としながら育ちました。

母は結婚生活の不満を溜め込み、それを末っ子の私にぶちまけることで心のバランスを取っていたのでしょう。家族の悪口を聞くのは正直うんざりしていましたが、私は東京の大学に進学するという夢を叶えて家を出ることに。

その後、適度に距離を置くことでまずまず平穏な母娘関係を維持できていた日々は、突然の母のがん宣告によって終わりを告げたのです。