次の日に美容院へ行き事情を聞くと、「お母さまはいらっしゃっていませんが……」と困惑した様子で説明してくれた。56歳だった母。「道に迷った」と言いたくないプライドが、あの頃はまだ残っていたのだろうと今ならわかる。この日を境に、母の挙動は坂道を転がるように悪化していった。

朝、出勤する父を見送り、玄関の扉を閉めた途端、「お父さんがどこかへ行っちゃった!」と大泣きする。たった今、「カステラを買って帰るね」と父が言い、母は満面の笑みで手を振っていたのに……。

また別の日、家の目の前にあるゴミ捨て場に行ったはずが、近所の交番から「お母さんを保護しています」と電話がかかってきた。万が一のために母の首から下げておいた迷子札が役に立ったとはいえ、なぜか片方のスリッパだけを大事そうに抱きしめている母とトボトボと家へ帰る道は惨めで、景色が滲んで見えたのだった。

心が休まらない生活に疲れ果てた私は、「病院で診てもらおう」と父にたびたび説得を試みるも、「お母さんは大丈夫だ。自分が面倒をみる」の一点張りで話が進まない。

一日中書きものばかりしている父にできることといったら、せいぜい母の髪を梳かしてやるくらいなのに……。大正生まれで70代だった父のなかには、「病院」「介護施設」といった言葉は存在しないのだ。

母が日に日に壊れていく。それでも父が目を背け続けたのは、裁判官という職業ゆえ。家に仕事関係の人が出入りしていたから、変貌してしまった妻を人目にさらすわけにはいかなかったのだろう。来客がある日は「お母さんを2階から降ろすな」と、私は一日中母の見張りをさせられる。