私が恐れていたのは、仕事で何かを忘れてしまうことだった。締切は忘れたことはないが、本を出すとなると、原稿を渡し、初校ゲラが出て、それを戻し、再校ゲラが出てそれを戻し……といった最低限の作業がある。
時折、文庫など、戻す日にちまでに2、3か月の余裕があるゲラが出てくることもある。そういうときは封筒に、書名と締切日を大きく書いておくのだが、そのことをころっと忘れたこともあった。
資料を探して、積み重なっていた紙類の束を調べていたら、封筒が出てきた。何だこれはと見たら、1週間後が戻す日になっているゲラだった。
「そうだ、これをやらねば」
と、あせってゲラをチェックして戻したことが何回かあった。たまたま手に取ったからよかったものの、資料を探さなかったら、編集者から連絡が来るまで、気がつかなかった。
そのような綱渡り状態になることも増えたので、仕事に関するものは、とにかく締切がしばらく先であっても、机まわりの目立つ場所に置くようにした。
人の名前も出てこなくなった。担当者の名前はさすがに忘れることはないので、大丈夫と思っていたのだけれど、それぞれ他社の方なのだが、私から見てとても顔立ちが似ている女性たちがいて、打ち合わせをしているときに、つい似ている別のほうの女性の名前を呼びそうになったことはある。そのたびに、
(この人はA社のXさんで、B社のYさんではない)
と胸の中で確認しながら、失礼がないようにしている。平然と打ち合わせをしているようだが、実際は、結構、どきどきしながら話をしているのだ。