「子どもたちが、毎日、元気に生きてくれているだけで素晴らしい!それが、僕にとっては何より感動的なことなんですよ」(撮影◎本社 奥西義和)
書道家としてはもちろんのこと、ジャンルを超えて幅広い創作活動を行っている武田双雲さん。「社会の中で生きづらい」「他人と上手くつきあえない」「衝動的に行動してしまう」というADHDの特徴を持ちつつ、国際的なアーティストとして活躍されているのは、自分の個性を丸ごと受け入れてくれた家族のおかげと語ります。そんな武田さんのこれまでを綴った新著『ADHDを「才能」に換える生き方』(ビジネス社)も出版。今日まで武田さんを支えてくれたご家族との関係について伺いました。
(構成◎内山靖子 撮影◎本社 奥西義和)

小5のときから、人生が大荒れに

僕はADHDの特徴と言われる多動性・衝動性をふんだんに持っています。ADHDの人が起こしやすいと言われる対人関係のトラブルや、社会の中での生きづらさも数えきれないほど経験してきて、先日対談した精神科医の岩波明先生には、ADHDと診断していただきました。

47歳になった今でも、電車に荷物を置き忘れるのはしょっちゅうだし、仕事のスケジュールも頭からすぐに抜けてしまう。毎日、信じられないようなミスの連続なんですよ。

とはいえ、そんな僕も幼稚園の頃は、クラスの人気者。めちゃくちゃ明るい性格でみんなを笑わせていたので、僕の周りにはいつも男の子たちが集まってにぎやかでした。大人と違い、小さい子どもは本能のままに行動するでしょう。

だから、自由奔放にふるまう僕も周囲に溶け込めていたのだと思います。小学校に入ってからは、先生に注意されることが増えてきたものの、4年生のときまでは、それほどクラスから浮くこともありませんでした。

ところが、小学校5年生になったとき、突然、人生に暗雲が立ち込めた。そのくらいの年齢になると、男の子も女の子も一気に大人びてきますよね。先生も生徒たちの一挙一動に目を光らせるようになり、規則も一段と厳しくなって。でも、僕は、その規則に従って行動することがまったくできない。おかげで、何をやっても怒られるようになり、男の先生から思いっきりビンタされたこともありました。

おまけに、「空気の読めない」僕は、どこのグループにも入れなかった。中学で野球部に入っていたときは、他の子たちから3年間、集団無視をくらいました。声をかけても、いっさい返事をしてくれない。学校に行くことが嫌になったときもありましたが、親もバタバタしていたので、じっくり話すこともあまりなくて。寂しかったけど、だからといって、どうすればいいのかもわからずに、ただ落ち込むことしかできませんでした。