吉晴が手にした「屋上庭園」版のエピローグでは、巣を覆う養生シートは改修ではなく、解体工事のためのものだった。荘厳な建物が解体されるにつれ、そこに詰まった歴史が美しい陽炎(かげろう)のように立ちのぼる。雀たちは百貨店の歴史、お客様とともにあった喜びの景色をあまさず記憶し、深く眠った。――ただ一つ、卵だというのに好奇心旺盛で元気な末っ子は、こっそりと巣を転がり出て、通りすがりの人間のポケットにもぐり込んだ。末っ子は、これからもお客様と一緒に旅を続けていく。名前通りの、明るい未来を目指して。
景品のしおりに描かれていたのは、ほのかな虹色につやりと光る、ストーリーを読んだ後では得意げにも見える雀の卵のイラストだった。これはかつての京都本店を愛していた客は喜ぶはずだ。納得感を得て、吉晴は景品を鞄にしまった。
無くなったように見えて、本当は無くなっていないものが、この世にはたくさんあるのだろう。
吉晴はダイニングテーブルでビールを飲みながら研究中の無脊椎動物について熱弁をふるう妻の頬の輝きを思い出した。緻密なスケッチを、パソコンに向かう丸い背中を、おやすみ、と吉晴が呼びかけた際に無言で振られた手の動きを思い出した。
夕飯に誘うと、三島と梅木は二つ返事で了承した。梅木は食事の間に相談したいことがあるという。
「俺もその、三島みたいに悩んでて」
「なんだい、仕事の悩み? 転職相談?」
「いや、ひとまずダブルワークで……実はミステリー作家になりたくて、賞に応募してるんです」
「へええ、すごいじゃない」
「いま三次選考まで進んでて、出版社の人から連絡が来たんですけど、これってどうすればいいだろうって迷うことがいろいろあって。すみません、ちょっとアドバイスください」
「いいよいいよ。日下部も来るし、みんなで話そう」
吉晴は大学教授としての自分の研究も、学生たちの指導も、どちらも大切にしている。力や時間を惜しまない。毎年新しい笹舟を送り出し、自分も舟を進める。営みをやめない。
ときどき振り返って、水面に描かれた航跡を眺める。うっすらと光る白波が、二本の線を描いている。その波の先にいつも、いつだって、妻を見つけられた。
(「航跡」 了)
