小学3年生になると、学校の長期休暇を利用して、東京の橘秋子先生のバレヱ学校に通うようになりました。

広島から東京までは寝台特急で約12時間。当時、連絡手段は電報しかなく、電車賃も高い。娘を一人で東京へ送り出した両親は、気が気ではなかったそうです。バレヱ学校から到着を知らせる電報が届くまで一睡もできなかったと、あとになって聞きました。

私はどんどんバレエにのめりこんでいき、小学6年生で単身上京。両親は私のことを「バレエにあげた子」と、覚悟を決めていたようで、私を信頼しポンと潔く送り出してくれたのです。

橘バレヱ学校では、長く踊り続ける精神と肉体の土台を作っていただきました。先生の指導はとても厳しいもので、なかには真冬の滝行なんてものも。主役を務めるには、オーケストラも含めて後ろにいる何百人という人を、何があっても自分が引っ張っていくという強い意志が必要だ、と教わりました。

葉室潔先生、洲和みち子先生、橘秋子先生。そして、松山樹子(みきこ)先生……。日本人にバレエなんてできないと思われていた時代に、日本のバレエ界の草分けとして、今に繋がる土台を築いた方々です。

どの先生も戦時中のご自身の苦労話をされることはありませんでしたが、先生方が必死になって日本にバレエを根づかせようとしてくださったおかげで今があります。

広島に生を享け、原爆の恐ろしさを目の当たりにした私が、平和を願い踊り続けることは使命だと思っているのです。

<後編につづく>

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